輸入中古車400勝

中古車ジャーナリストの雑文一式。

オープンカーで精神統一!

※2011年12月14日執筆

 

輸入中古車ジャーナリスト兼カリスマ無職である自分は自宅にて食器を洗っていることが多く、1日の大半は皿を洗って過ごしているような気もする。そんなことならいっそパートタイマーとして大戸屋に入社しカリスマ洗い場師になれば良いのだが、生前の忌野清志郎先生がおっしゃった「ロッカーは働いちゃいけない」との言葉を座右の銘とする自分はそれを善しとせず、今日もまたひたすら洗い続けた。自宅ソーサー類を洗ったところで当然1銭にもならぬので、今月晦日の各種集金には土下座で対応しようと考えている。


そんな食器洗いにも、良い点はある。自分は水をガーッと流しながら食器を洗っていると、いつしかトランス状態となり…とまでは言わぬが明鏡止水の心境となり、アルファ―波がビンビンに発射され、脳内はアイディアーの宝庫となる。宝庫となったところでこの程度の駄文しか書けぬのは不徳の致すところだが、とくにかくアルファ―波ビンビン、なのである。

これは恐らく「滝打たれ効果」なのではないかと愚考する。滝打たれ効果などという日本語があるのかどうか知らぬし、そもそも自分は恥ずかしながら滝に打たれた経験がないのだが、おそらくアレは、以下のとおりだ。

最初は「わちゃっ! 冷てっ!! 死ぬ!!! っていうかウルサ過ぎじゃね? 滝の音」的な感じで精神統一もクソもないのだが、いつしか、あまりの冷たさと轟音、そしてそのリフレイン(繰り返し)により、体内と精神の表層的な何かが麻痺する。そして麻痺したがゆえに邪念が消え、普段は奥底にある「心眼」が表層部まで上昇し、ライトな悟りに至りやすくなる。未経験ゆえ間違っているかもしれないが、自分は滝修業のメカニズムをそう解釈している。

 

食器洗いが作る明鏡止水な心のメカニズムも、それに似ている。水の音と冷たさ(あるいは温水の心地よさ)、それらと単純作業のひたすらのリフレイン。それは、詳しくは知らぬが違法な錠剤を服用しながら聴き踊るハウスミュージックのように、人を疑似的な悟りへと導く。皿洗いはサイケなのだ。いや、そんなことはどうでもいい。言いたいのは、自分のごとき凡俗がアルファ―波をビンビンに発射するには、詫びた古寺などに行ったところで邪念の嵐を呼ぶだけで、アルファ―波とは一見対極にある俗な騒音と轟音のリフレインの中にこそ、件の波発射のカギがあるのではないか、ということだ。


自分の悪い癖で、またもや前置きが長くなってしまった。当エントリを読み始めたユニークユーザーの9割はすでに離脱していると思われるこのマイクロコンテンツ時代にあって、残っていただいた1割の方に向け、結論を申し上げよう。

「オープンカーで走ることは、食器洗いに似ている」……と書くとあまりに軽薄な感じもするので、言い直そう。「オープンカーで走ることは、滝修業に似ている」………これも大げさすぎてどうかと思うが、要するに「精神統一の一助になりますよ」ということだ。

 

ご存じのとおり屋根を開け放った状態でクルマを走らせると、いろいろなモノがとにかくうるさい。風を切る轟音と周囲の騒音、そして自らのエンジン音と排気音が、遮蔽物なしで自分の耳と肌、ココロを直撃する。昨今のオープンカーは風の巻き込みは少ないが、それでも少なからぬ風は入ってくるゆえ、寒さ対策の意味でヒーター風量もそれなりにする。当然、それもうるさい。ルーフやCピラーがないことで必然的に増える視覚情報の多さも、ある意味うるさいものだ。

 

そんなこんなのカオスの中、「わちゃっ! 寒っ!! 死ぬ!!! っていうかウルサ過ぎじゃね? 隣の大型トラック」的な感じで走り出し、しかしいつしか水温が完全に上がってヒーターからは心地よい温風が吹き、頭寒足熱の温泉世界が現れる。しかし相変わらず、聴覚的にも視覚的にも「うるさい状態」は続く……となると、まるで温かいお湯でひたすら大量の皿を洗い続けているかのごとき「甘美な麻痺」が去来し、ドライバーは小さな小さな悟りへと至るのであります。


これが、プチ悟りとアイディアー製造機としてのオープンカーの、正しい使い方である。この使い方に基づき自分は先ほど、世界的かつ革命的な重大アイディアーを思いつき、特許を取得したうえでこの原稿に記そうと思ったのだが、クルマを降りた途端、その革命的アイディアーを完全に忘れてしまった。運転中は思いついたことをメモることもできないゆえ、わたしのせいではない。この原稿がつまらぬのも、だからわたしのせいではない。という言い訳をしたら、編集者に殴られた。