輸入中古車400勝

中古車ジャーナリストの雑文一式。

大丈夫、オレは見えている

※2012年11月7日執筆

 

わたしほど温厚な人間はいないと常々思っている。わたしは「怒る」ということがほとんどない。過日も、某出版社に土下座まんじゅう営業をしに行った際、わたしよりも十は年少の社員編集者に「やあ、なんで牛の睾丸が空中浮遊しているのかと思ったら、伊達クンの顔だったか。はて何の用向きか? 君のような猿に出す仕事などないぞ。あ、どうでもいいけど焼きそばパン買ってきて」と言われたが、わたしは怒らなかった。常人であれば憤怒し、一本背負いの後に三角締めで失神させるところだろうが、わたしはただ「エヘッ、エヘッ、エヘヘヘッ……」と曖昧に笑うだけだった。

だがそんなわたしでも、めずらしく怒る局面はある。それは「夜間やトンネル内で無灯火走行しているドライバー」と遭遇したときだ。


普段は牛の睾丸呼ばわりされても怒らぬわたしだが、例えばトンネル内にもかかわらず無灯火で走行しているうつけが追い越し車線を飛ばしているのを見ると、どうしても我慢ならなくなり、わたしは時速200キロほどでこれを猛追。窓ガラス越しに、ここにはとうてい書けぬ罵声を浴びせてしまうのだ。無論、その間わたしは前方をいっさい見ていないので、死にかけたこともしばしばである。

この悪癖をなんとかしないことにはそのうち、世間の交通マナーの悪さを憂うあまり、わたしのほうが爆死してしまう。

解決策は、「なぜ彼奴等はライトをつけぬのか?」という理由を論理的に考えてみることだろう。理由がわかれば、わたしの理由不明なこの怒りも何とか制御できそうな気がする。

ということで考えた。なぜ、彼奴等らはライトをつけぬか?

まず考えられることとして「ヘッドライトの故障」があるだろう。ライトのスイッチをONにしたことで運転席のメーターまわりは照明が付いているのだが、肝心のヘッドライトはついていない。あるいは「AUTOモード」が故障しているため、つけてるつもりでついてない。

考えられなくはない話だが、しかし世間の人が乗っているのは、右ウインカーがしょっちゅうハイフラ状態になり、そして右リアのランプもなぜかしょっちゅう点灯しなくなるわたしのド中古イタリア車とはわけが違う。あれほど多くの「ヘッドライトの故障」がそこかしこで起きているとは考えにくい。この説は却下だ。

第二に考えられることとして、「最近のクルマはそもそもメーターまわりが明るいから」というのがある。

 

わたしがしばしば買うド中古輸入車というのは一般的に、ヘッドライトまたはポジションランプをONにしない限り、夜間やトンネル内はメーターまわりが暗くて仕方ないもので、そのため否応なしにヘッドライトを点灯することになる。しかし最近のクルマは下写真の日産ノートのように、ライトをつけていようがいまいがとにかく手元が明るい。わたしもこのノート広報車に乗っていた際、とあるトンネルでうっかり0.001秒ほどヘッドライトを点灯することを忘れた。0.001秒とはいえ、わたしとしては非常にめずらしいことである。これは非常にありえる理由だろう。


第三の説として、そしておそらくはこれが最大の理由なのではないかと睨んでいるのだが、「大丈夫、オレは見えている」という理由がある。

INAKAの山坂道はさておき、都内であればいかな真夜中であろうと、いかなトンネル内でも、無灯火のため前方が見えない、ということはない。まわりが十分明るいですからね。

つけずとも、見える。だから、つけない。

……その者にとっては鉄壁の理屈なのかもしれないが、その者は大きな勘違いをしている。INAKAのことは知らないが、ここ東京においてはクルマのヘッドライトとは「見るため」にあるのではない。「見られるため」にあるのだ。

仮に自分からは周囲が鮮明に見えていたとしても、周囲を走る者のミラーや眼に己が存在を顕在せしめんことには、安全なる運行はままならぬ。そのために、つまり「見られるため」に、我々は夜間やトンネル内等でヘッドライトを点灯するのである。そこのところを貴様はどうしてわからぬか、うつけめ!

……というようなことを、例によって時速200キロでうつけを猛追した後、数分間にわたり横を向きながら説教し続けたら、案の定爆死した。南無妙法蓮華経。