輸入中古車400勝

中古車ジャーナリストの雑文一式。

BMW問題

※2011年8月31日執筆

 

輸入中古車ジャーナリスト兼日雇い編集者兼カリスマ調香師として論じたいことはさまざまあるのだが、そうだなぁ、自分は今日は「BMW問題」について論じてみようかしらんと思う。

「BMW問題」というのは多くの人が知るところであるが、つまりは「人はなぜ、BMWと名のつくクルマに乗ると極悪非道な運転になってしまうのか?」という問題である。

 

尊公にも経験があると思うが、やや混雑した3車線の高速道路追い越し車線を、流れに乗って走っていると、背後から迫りくる一台のBMW。

お先にどうぞの観点で自分が中央車線に退いてもよいのだが、いかんせん前も左も詰まっている状況のため、そのムーブはほぼ無意味。っつーことで背後の圧力をシカトしてそのままのペース、そのままの車線で走る自分。しかしさらなるプッシュをかけてくるBMW。「チッ……」と思いつつ、時をおいて再びルームミラーを見ると、そこになぜか当該BMWの姿なし。

 

はて面妖な? と思っていると、一番左の走行車線に突如現れる当該BMW氏。そのまま走行車線にてズバズバっと中央および右側車線を走る一群を追い抜くや、最右車線まで、清水和夫先生もびっくりの(ある意味)ダブルなレーンチェンジでズバッと復帰。ポカーンとその光景を眺める自分を尻目に、ギリギリ視界が届く500mほど先まで同様のムーブを3回繰り返し、そして見えなくなるBMW氏。

日常的にクルマを運転する者なら誰もが見かける光景ではある。

しかし、極悪非道な当該BMWを運転する者が「お塩先生」こと押尾学被告顔負けのワルなビジュアルの者であるならば、それは凡庸な出来事なのだろうが、多くの場合、非道BMWの運転席には比較的善良そうな、程度問題としてお塩先生よりはえなりかずきに似ている人物が、座っている。そこが、BMW問題を複雑にしている。


過去、作家のマーチダ・コウ先生はその随筆のなかで「BMW車のエアコン吹き出し口からは、善良な人をも凶暴化させる何らかのガスが出ているのではないか」と推理した。影響を受けてしまいそうなのでわたしは当該スレッドを読んでいないが、「巨大掲示板」でもBMW問題は語られているようで、そこでもさまざまな凶暴化原因が推理されているのだろう。

では、自分もここで推理してみることにしよう。とはいえ自分は過去、E36型BMW3シリーズおよびそのE46型、そしてE46型アルピナに乗っていた時期があり、顔も、お塩先生というよりはえなりかずきに近い。ということは、BMW問題に関してわたしは傍観者ではなく「半当事者」であることを、予め申し上げておきたい。

 

さてBMW問題。自分が思うに凶暴化は、二つの要因が元で起こっている。

一つは、BMWの「適度なスポーツ性」だ。

最近は使われていないが『駆け抜ける歓び』というのはBMWの有名な公式フレーズで、確かに、BMW車は1から7に至るまで「駆け抜けてみると、なんかとってもイイ」という感じをドライバーに与える作りになっている。自動車ライターのくせにクルマの挙動に関する語彙が貧弱で恐縮だが、エンジンかけてブワッと踏むとシュワッと回り、ステアリングを軽く切るとズビュッと曲がる。それが、BMWだ。……ちょっとざっくり過ぎるかもしれないが。

そして、それらがあくまでも「適度」であるという点が、BMW問題のまず第一の要因と考える。挙動等があまりにも鋭すぎたら、先にサンプルとして挙げた高速道路上の非道BMW氏も「俺様爆走」するどころではなく、西部警察ロケにおけるTVRタスカン事故のごとき状態になってしまうだろう。しかしBMW各モデルはあくまでも比較的定志向な状況の下で、大変に快適かつ刺激的な「シュワッ」「ズビュッ」がイケる塩梅になっている。だから、ドライバーはある種安心して、そして運転が上手くなったかのような気分の中で、シュワズビュするのだ。いや、それをついつい「したくなる」のだ。

 

第二の要因は、その「やや半端な立ち位置」であろうと自分は愚考する。

クルマに限らず何事においてもそうだが、「吾はスーペリアーな存在である」と自他ともに認める状態にある者は、ことさらっつーか今さら、声高に「オレってエライんだぜ!」と主張する必要はない。なぜならば、もう既に認められてんだから。そういった意味でメルセデス・ベンツに乗る者の多くは、そのイメージに反してさほど非道な運転はしない(一部いますけどね)。いかにアウディ等の勢力に販売数、イメージともに負け始めているとはいえ、「ベンツはベンツ、やっぱエライのだ」という集合無意識のようなものはいまだ健在であり、その意識ゆえにドライバーは、今さら俺様運転をすることで自分の重要性を誇示することに価値を感じない。

一方で「スポーツ性」の問題があるが、純粋な意味でスポーツ性に優れるクルマ――たとえばロータスやフェラーリ、ポルシェなどは、己の主戦場はサーキットあるいは人里離れた峠道、またあるいは深夜の六本木であることを知っており、あたかもカタギ衆の中にいるヤの付く職業人のように、わざわざ混雑した一般公道でその軍事プレゼンスを誇示しようとはしない(たまに誇示する“チンピラ”もいるのだろうが)。

BMWの悲劇は、それらのどちらをも「ちょっとずつ、高いレベルで持っている」ことにあるのだろう。いわゆる一つのステイタス性は十分以上にあるが、その実質ではなく「集合無意識」的には、メルセデスおよびロールズ・ロイス/ベントレー等には及ばない。またスポーツ性も超特筆すべきものがあるが、純粋スポーツカーとは比べるべくもない。

しかしBMW各モデルは、(古めの中古車は別として)誰もが入手できるわけではない高価なクルマであることは間違いなく、また超良質な「スポーティ」カーであることもまた間違いない。そのことを、それを手に入れられるまでになった俺の人生を、わかってほしい。認めてほしい。

主に高速道路における「BMW問題」の実際を目の当たりにするたびに、自分には――もちろん全員ではなく一部なのだが――BMWオーナーの、そういった魂の叫びというか悲鳴が聴こえてくる。幻聴かもしれないが。

何をどう運転しようが基本的には個人の勝手であるし、自分は「ビタ1km/hたりとも速度超過はシマセン!」などと騙るモラリストでもない。ただ、BMW問題の渦中にある者の運転はやはり危険であり、周囲の者にとっても危険であり、そもそも美しくない。

 

そこでどうだろうか。

高速道路にはよく『急ぐまい 可愛い我が子が待っている』『その命 愛とベルトで守ります』などの標語が掲示されているが、アレの効果など甚だ疑問である。アレの代わりに自分が提案するのは、以下のような標語を高速道路上に、できれば1kmごとに掲示する運動である。

『よく買った! やっぱビーエム最高だ』
『3も5も 1すら宇宙一の味』
『貧乏人 あなたのビーエム仰ぎ見る』

こうすれば、1km走るごとに一部のBMWオーナー氏はそのプライドが十分に満たされ、無謀な運転もかなり減るのではないかと愚考するのだが。